石アーチ橋
都道府県別データ一覧にあるBランク以上の石アーチ橋 (石アーチは九州偏在)
写真
名称
ふりがな
所在地
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
祓川橋
(めがね橋)
はらいがわ
福島/福島市
駒山公園
<羽黒山参道/祓川>
石アーチ橋
長8.5m(A),幅5.5m,
有効幅4.7m
安永年間(1772-81)
市有形
市教委/WEB
昭和45に公園内に移築/移築の際に破損部分を修復
古関三郎治が寄進/東北地方で唯一の江戸期の石アーチ/両側の楔石に鶴と亀の浮彫り
2
B
円月橋
えんげつ
東京/文京区
小石川後楽園
石アーチ橋
(太鼓型)
(御影石)
長11.09m(A),幅2.32m
寛文5(1665)以降
特別史跡/特別名勝
東京都水道歴史館/江戸切絵図今昔散歩p31/WEB
平成22・23に解体・修復
石工:駒橋嘉兵衛/光圀公の命により、中国明の儒学者・朱舜水が設計したわが国初の石アーチとの俗説もあるが、光圀公の生年は寛永5(16
28)なので、長崎眼鏡橋(1634)より早いとは思えない。光圀公が朱舜水を招いた寛文5(1665)以降の完成と見るのが最も蓋然性が高い/解体調査時に121個の鉄ダボが石のズレ止めに使用されていることが判明
1
A
十三社神社の参道橋
じゅうさんしゃ
東京/(大島)新島村
(新島)
十三社神社
石アーチ橋
(コーガ石)
(2A)
江戸期
村教委/WEB
保存状態良好/十三社神社内はコーガ石芸術の宝庫(本殿の両脇にある摂社は総石造り)
アーチ構造を100%理解しているとは思えないような迫石の配置/新島特産のコーガ石を用いたディテールの加工は見事/碁盤目状の石を45度傾けて並べた橋面石がユニーク
1
B
会地早雄神社の太鼓橋
おおぢはやお
長野/(埴科)坂城町
会地早雄神社
石アーチ橋
(太鼓型)
長2.0m(G),
幅1.8m
享和元(1801)
町教委
昭和46修復/修復時に太鼓型のアーチの下部を石材で充填してしまったため、裏面がどうなっているか視認不可能
迫石だけで構成されたアーチ橋→迫石は両端の高欄の載る部分を含めおおまかに4列からなるが、必ずしもきれいに並んでいるわけではなく、3列の部分や、石がずれている部分もある→何れも、橋のサイズの割りに大型の石材が使われていて、アーチとしてのバランスの限界を感じさせる/江戸後期に信濃で石アーチが造られた経緯が不明
3
A
図月橋
とげつ
石川/金沢市
尾山神社庭園
<金谷御殿庭園>
石アーチ橋
(弓型)
長10.4m(3A),幅1.5m
享保19(1734)以降?
県名勝
市教委(石川県の文化財)/WEB
保存状態良好/通行禁止
多くの地元WEBサイトでは、図月橋の建造年代を寛永19(1642)頃とし、神社が建てられる以前の金沢城出丸金谷御殿の庭園橋と書いているが、すべて同じ出典と思われる/『城下町金沢学術研究1』の第1分冊(金沢市、2010、p.30には、「享保19(1734)に金谷御殿が建設され」とあるので、それ以前から庭園があったとは考えにくい→図月橋の建造年は享保19以降に下ると考えるのが妥当であろう/ただ、迫石が各アーチ3個という少なさは、九州の定番的な石アーチと比べれば異例であり、側壁の「薄い石材をまばらに埋め込んだ漆喰(?)壁」という構造も異例である。江戸時代に九州以外で造られた石アーチはきわめて少ないが、その中でもひときわ特異であり、「誰が、どうやって」という経緯について、今後の学術的な研究の成果を待ちたい
2
A
円通橋
えんつう
京都/京都市(東山区)
西本願寺・大谷本廟、
皓月池
石アーチ橋
(真円アーチ)
(花崗岩)
長24.0m(2A),幅6.0m
安政3(1856)
WEB(石橋)
全国的にも例のない2連の真円アーチ橋/当時は「奇行をつくした石橋」として珍重され、『花洛名勝図絵』にも紹介/高欄の地覆部が高く装飾的に加工され、その上に撥型の束柱(特異な形の擬宝珠)を載せる/石工等、施工の経緯は不明
1
A
雪鯨橋
せつげい
大阪/
大阪市(東淀川区)
瑞光寺
石アーチ橋
(弓型)
長約6m,幅約3m
宝暦6(1756)
市民俗
WEB(大阪市)
文政12(1829)~平成18に5回欄干の骨部材を交換
欄干がクジラの顎骨で造られている橋/江戸期の大坂は鯨肉の大消費地であり、産地の紀州熊野浦の漁民により欄干の鯨の骨の取り替え、橋の修復が行われていた
1
A
不老橋
ふろう
和歌山/和歌山市
人道/和歌の浦
石アーチ橋
(和泉砂岩)
長14.9m
嘉永4(1851)
市建造物
市教委/WEB
あしべ橋開通時に全面修復
施主:紀州藩10代藩主・徳川治寶施工:肥後の石工集団、高欄部分(雲を模した浮彫)は湯浅の石屋忠兵衛(?)
1
B
五百羅漢の石反橋
ごひゃくらかん、そり
島根/大田市
羅漢寺<石見銀山>
石アーチ橋
(太鼓型)
(福光石)
(3基)
長4.5m,S4.2m(A)
明和元(1764)
世界遺産/国史跡/
日本百名橋p185-186
/WEB(石橋)
保存状態良好
アーチを構成する輪石が橋面石も兼ねた非常にシンプルな構造(ほぼ20㎝角、長約2mの台形断面角柱石材約20本を円弧状に並べたもの)→よほどアーチの技術に長けていないと造れない→江戸時代、九州からほとんど出なかった「アーチの技術」がどういう形で石見にまで伝わったかは不明/銀山川を挟んで掘られた3つの石窟に入るための橋/高欄の欄間に雲形文
1
A
跨虹橋
ここう
広島/広島市(中区)
縮景園
石アーチ橋
(太鼓型)
長7.7m,S2.7m,幅2.0m
天明6(1786)
日本の木の橋・石の橋p146/
WEB
(石橋)
保存状態良好
御影石の切石積の単径間アーチ橋/天明6(1786)に第7代藩主浅野重晟が縮景園の大改修を行った際に、京都の庭師であった清水七朗右衛門に命じ、二度の築き直しを経て現在の形に作られた
1
B
秋月目鏡橋
あきづき
福岡/朝倉市
人道<一般道>/野鳥川
石アーチ橋
(花崗岩)
長17.9m,S13.9m(A),幅4.6m
文化7(1810)
県有形
WEB
橋面舗装→平成19年復元
硬質の花崗岩で造られた石アーチ橋(完成当時、日本で唯一)/施工した長崎石工が花崗岩に不慣れで、完成直前に崩壊、再挑戦後に完成した逸話がある
1
B
熊野神社の眼鏡橋
くまの
福岡/筑後市
熊野神社
石アーチ橋
(凝灰岩)
長5.25m,S5.2m(A),幅3.01m
元禄10(1697)
県有形
市教委
/WEB(石橋)
修復履は不明だが、一部組みかえられている
石工:富永仁右衛門/17世紀の石アーチ橋/精緻な装飾高欄/壁石が少なく、橋面も円弧状
2
B
大覚寺の参道橋
おおどう
佐賀/佐賀市
大覚寺・参道/大覚寺井樋水路
石アーチ橋
長4.0m(A),幅2.3m
寛文12(1672)
WEB(石橋)
保存状態良好
県下で最古の石アーチ橋/高欄・束柱の装飾性は高い/束柱に「
時
寛文十二壬子歳/南呂上旬」(
緑字
は古字)と建立年が刻字/系譜不明
1
B
八天神社の眼鏡橋
はちてん
佐賀/嬉野市
八天神社・参道
石アーチ橋
長11.14m,S9.0m(A),幅3.69m
嘉永7(1854)
県重文
WEB(石橋)
保存状態良好
文政9(1826)に2径間アーチとして計画されたが結局1径間に変更/壁石に見事な石組み/擬宝珠付き高欄
1
B
長崎眼鏡橋
ながさき
長崎/長崎市
人道/中島川
石アーチ橋
(安山岩)
長22.35m,S8.07m(2A)
寛永11(1634)
→慶安元(1648)修復(前年の洪水による被害を受けて)
国重文
日本百名橋p229-231/馬場俊介/林 一馬/市教委
昭和57の長崎水害で右岸側のスパンドレル部流失→日本で初めてバイパス水路を造って原位置保存を行った
興福寺の第2代住持・黙子如定禅師(寛永9に中国から渡来)により寛永11に創建されたとされる(文書記録が寛文3(1663)の火災で滅失しているので、一部に異説もある)/如定が技術指導までしたのか、勧進のみ行い技術者が別にいたかも不詳〔如定の出身地・江西省には、中国で現存する最古級の石アーチ橋「栖賢橋(1014)」をはじめ16世紀以前に起源を持つ石アーチ橋があるが、すべて壁石・迫石背面が布積されており、長崎眼鏡橋との構造上の類似が目立つことから、如定の発案と見てよいのではないか〕/正保4(1647)の洪水で崩壊し、翌慶安元(1648)に「重修」されたとの18世紀以降の史料が複数あるが、この「重修」が修復か新架についても説が分かれる(初代の橋は石橋ではなく木造の虹橋であったという説もある、しかし、「寛永年間長崎港図」の写しをそのまま信ずれば、寛永11の当初から眼鏡橋だったと考えるのが素直)/沖縄を除く日本国内で最初の石アーチ橋(17世紀の沖縄は琉球王国だったので、「国内最古」からは除外)/撥型の束柱をもつ高欄→その後の石橋に大きな影響
1
大手橋
おおて
長崎/長崎市
一般道/堂門川
石アーチ橋
長12.5m,S4.5m(A)
慶安3(1650)
→享保6(1721)修復
WEB(石橋)/市教委
昭和7頃、階段付きの上部を水平に改造/昭和57水害後改修(石アーチは橋の下に残る)
唐通事(中国語の通訳)・高一覧(寛永6に中国から渡来)の私財と、募った浄財で架橋/沖縄を除く日本国内で、現存する2番目に古い石アーチ橋(下記の「袋橋」が2番目だとする説があるが、論理的根拠がない)
3
A
一瀬橋
いちのせ
長崎/長崎市
一般道<日見街道>
/中島川
石アーチ橋
長13.5m(A)
承応2(1653)
WEB(石橋)/市教委
側面に管類がみっともなく装着/高欄束柱一部補修/親柱後補
唐通事(中国語の通訳)・陳道隆が私財を投じて架橋
2
B
古橋
(旧・中川橋)
ふる
(なかご)
長崎/長崎市
鳴滝川
石アーチ橋
長7.6m(A)
承応3(1654)
市有形
WEB(石橋)
親柱・高欄をそのまま埋め込んだ形で野面石で約1m嵩上げし、路面を水平に改造
唐通事(中国語の通訳)・林守殿が私費を投じて架橋/創架後崩流記録はない/径間が小さいため、布積になった壁石と迫石の接合部での鋭角が目立つ→破損を防ぐため矢じり形に加工
3
B
桃溪橋
ももたに
長崎/長崎市
西山川
石アーチ橋
長13.0m,S9.8m(A)
延宝7(1679)
市有形
WEB(石橋)/市教委
昭和57水害で迫石がかろうじて残るまで被災→修復・復元
僧卜意の募財により架橋/河畔に桃の木が多くあり、桃の名所として有名だったことから命名
2
B
袋橋
ふくろ
長崎/長崎市
一般道/中島川
石アーチ橋
長17.3m,S15.2m(A)
17世紀中葉?
市有形
WEB(石橋)/市教委
昭和57水害で迫石がかろうじて残るまで被災→修復・復元
「長崎眼鏡橋」の1つ下流側にあり、形態も非常に良く似ている/中島川の石アーチ橋については由来の判っているものが多いが、袋橋については架設者を含めて不明/「長崎眼鏡橋」に次いで古いとの説もあるが、論理的な根拠は一切ない
2
B
高麗橋
こうらい
長崎/長崎市
西山ダム河川公園
<中島川>
石アーチ橋
長15.5m(A)
<承応元(1652)>
→慶応2(1866)架替
WEB(石橋)/市教委
昭和57水害後、昭和60解体、平成5移設・復元(端部に石材追加、高欄復旧)
初代の石アーチ橋は明国人により架設、慶応2に麹屋町の商人・池島正助により拡幅架替/江戸末期の架替だが、外観は「長崎眼鏡橋」に酷似
2
B
諫早眼鏡橋
いさはや
長崎/諫早市
諫早公園内の園池
<人道/本明川>
石アーチ橋
長49.25m,S17.4m(2A)
天保10(1839)
国重文
日本百名橋p232-233
/WEB
昭和32の諫早大水害後、橋はぶくともしなかったが、被害を大きくした原因となったため諫早公園に移設(昭和36)
「幕府の公儀巡検使を迎えるのに本明川に橋がかかっていないのは諌早の面目が立たない」という理由で、本格的な石橋の架設が検討→天保9に藩士2名が修理方に任命→藩主が経費の1/3、托鉢僧侶による寄付で1/3、残りは賦役で完成/ただし、巡見使の諌早訪問が天保9年6月15日と着工直後で、橋の片鱗も見なかったことから、上記の定説に疑問を呈する説もある/2径間だが中央の橋脚が九州の複数径間の石アーチ橋としては異例に頑強/スパン17.4mは世界標準からすれば小型だが、美しさという点では日本を代表する石アーチ橋
2
法音寺橋
ほういんじ
長崎/平戸市
(平戸島)
人道/鏡川
石アーチ橋
長5.3m(A)
元禄10(1697)
WEB(石橋)
/WEB
保存状態良好
幸橋着工前に試しに架けられたものだと言われてきた(証拠はない)/幸橋よりもスパンドレル部が少なく、ほとんど迫石だけで安定を保っており、技術的にはより高度(「試し」という通説には一定の疑問が派生する)
1
B
幸橋
さいわい
長崎/平戸市
(平戸島)
人道/鏡川
石アーチ橋
(玄武岩)
長18.6m(A)
元禄15(1702)
国重文
WEB
昭和59解体復元
松浦家30代棟(雄香)の命により、地元の石工たちによって架設/アーチの技術は、豊前という名の大工が、和蘭商館の石造倉庫建造に携わって覚え、その技術を地元の石工に伝授したものと伝えられる/『御家世伝草稿』には、「長崎の石工に見積もりを頼んだら金額が高かった。そうしたところ、平戸の石工が、長崎の橋は、もともとオランダ商館倉庫建築の技術をもとにしている。自分たちもその技術を受け継いでいるので、自分たちに作らせてほしいと申し出た」との記載がある→長崎市内の石アーチ橋の起源にも係わる重大な記述(長崎眼鏡橋については明僧・如定の貢献は否定できないが、その他の石アーチの一部には、オランダ商館で働いた石工の経験が生かされた可能性もある)
1
A
飯野の眼鏡橋
いいの
長崎/南島原市
人道/新川
石アーチ橋
長7.9m,S5.7m(A)
嘉永6(1853)
<布津町有形>
WEB(石橋)
/市教委
橋中央で高欄の石材同士に隙間が生じ、キーストーンの一部に亀裂/車の通行のため一部拡幅
石工:平治兵衛/迫石の中央3分の1は、迫石だけでアーチを構成する特異な構造⇒下記の「面無橋」は現存する“最も原始的な”石アーチだが、本橋は逆に扁平かつ壁石が最少限の最も洗練された石アーチ
3
B
面無橋
おもなし
長崎/南島原市
農道/高江川
石アーチ橋
長12m,S3.9m(A)
江戸末期
市有形
WEB(石橋)
保存状態良好
迫石の加工度が例外的に低い特異な石アーチ⇒石アーチは迫石同士のせん断摩擦で安定性を確保する構造なので、“迫石同士の密着が確保できない”こうした石材の使用は異例(橋の側面はまだ“きれい”だが、内面は“乱積み”に近い外観)/スパンドレル部の石積はさらに荒く、石積のセオリーと関係なく大小様々な形状の石が“詰めて”あるだけ
1
A
万年橋
まんねん
大分/大分市
(寒田)西寒多神社・参道/寒田川
石アーチ橋
長22.0m,S11.0m(A)
文久2(1862)
県有形
WEB(石橋)/市教委
保存状態良好/平成10修復
庄屋・佐藤孝兵衛らが発起、大野郡の石工・後藤郷兵衛らが建造/太鼓橋とも呼ばれる優雅な虹型のアーチ橋/壁石は精緻な石組み(迫石に接する部分は二重アーチを思わせる造り)/橋の中央部は一体型高欄を除けば迫石だけで構成されている→技術的に高度で、かつ美しい
1
B
金隄橋
きんてい
大分/大分市
(上戸次・影の木)一般道
<日向街道>/吉野川
石アーチ橋
長12.0m,S10.9m(A)
慶応元(1865)
WEB(石橋)/市教委
路面は、バスを通すため水平に嵩上げ
棟梁: 臼杵・馬代の傳蔵、地元・影の木の廣吉/一体型高欄を含め全体が緩やかな笠型をしたアーチ橋
2
B
打上橋
うちあがり
大分/宇佐市
(
御沓・
高並)
一般道/高並川
石アーチ橋
長17.8m,S11.8m(A)
文久3(1863)
市有形
WEB(石橋)
上部に鋼桁/高欄ガードレール化
石工: 山村藤四郎/壁石はすべて自然の栗石/石橋供養塔が設置
3
B
西光寺橋
さいこうじ
大分/宇佐市
(月俣)廃道
<西光寺・参道>/院内川
石アーチ橋
長10.75m(A)
江戸末期
市有形
WEB(石橋)/WEB
一体型高欄の半分ほどが欠損
壁石は自然石の野面積
2
B
通の車
橋
かよい
大分/臼杵市
(田尻)一般道
<府内往来道>/中ノ川川
石アーチ橋
長11.6m,S10.1m(A)
文化10(1813)
市有形
WEB(石橋)/市教委
高欄ガードレール化/時期により側面が雑草で覆われる/壁石の積み方が場所により異なる(下流右岸側は布積、左岸側は乱積)→恐らく乱積がオリジナルで布積部は明治以降の補修か?
『古史捷』により年代が確定
2
B
虹澗橋
こうかん
大分/臼杵市・
豊後大野市
一般道/三重川
石アーチ橋
長31m,S25.2m(A)
文政7(1824)
国重文
日本百名橋p219-220
/WEB(石橋)
/市教委
大型車を通すため取り付け部を1mほど嵩上げして水平に→端部では高欄上にC壁
臼杵へ年貢米を運搬する際の最大の難所だった柳井瀬に、3人の豪商(三重・市場の油屋富治と後藤喜十郎、臼杵城下の茶屋・甲斐源助)が藩の許しを得て自費で架けたもの→私財投入で身代が傾いた/石工棟梁:臼杵の大野織平、支保工:大工・磯五郎/虹型の美しいアーチ橋
2
A
御祓橋
おはらい
大分/臼杵市
白馬渓(下流から4番目の橋)
石アーチ橋
長4.7m,S1.0m(2A)
天保3(1832)
市名勝
WEB(石橋)/WEB
保存状態良好
天保3、臼杵藩の庭園石工で伊勢神宮を尊崇する橋本主馬介眞彦が、渓流の美しさに心をうたれ、臼杵田町の富商・清水善七ほかの同士と共に道路を開き、石橋を架け、もみじ・南天など四季の花樹を育てた→翌年伊勢の外宮・豊受大神の御分霊を迎えて大神宮を創祀、この境内を白馬渓と称するに至ったとされる/橋自体が美しさを演出している
1
B
間戸川の車橋
まど
大分/臼杵市
(八里合)廃道/臼杵川
石アーチ橋
長23.0m(A)
嘉永3(1850)
市有形
市教委
橋側面が、両端部を除き雑木・雑草で覆われている
2
B
妙経寺の庭園橋
みょうきょう
大分/杵築市
妙経寺・庭園
石アーチ橋
(合掌式)
長2.9m(G)
安永4(1775)
県名勝
WEB(石橋)/市教委
保存状態良好
(このサイトでは原則として庭園橋は除外するが、特殊な構造のためリストに含めている)
わずかに弓なりになった2つの石梁が中央で合掌しアーチを構成する構造/大分県に2橋、熊本県に1橋存在する近世(?)の合掌式アーチ(豊後高田市と熊本県人吉市)と同一構造だが、両端もしっかり固定されており最も安定感が強い
1
B
阿弥陀廃寺のめがね橋
あみだ
大分/国東市
(治郎丸)
<阿弥陀寺・参道>
石アーチ橋
長5.6m,S3.3m(A)
文久年間(1861-64)以前
市有形
WEB(石橋)/市教委
放置
すべての迫石が1本の石材でできている(
写真参照
、ほとんど例がない)/阿弥陀寺は文久年間の廃止なので架橋はそれ以前
2
B
岩戸橋
いわと
大分/竹田市
(馬場・柏原)
人道<岩戸道>/馬渡川
石アーチ橋
長28.2m,S17.4m(A)
嘉永2(1849)
県有形
現地解説板/WEB(石橋)
保存状態良好/すぐ脇に道路橋
柏原組大庄屋・垣田角次郎らが岡藩に架橋を申請・約50両の資金も借り受けて完成/藩に対する嘆願書や設計書などが残る/壁石は野面積
1
A
筏場
眼鏡橋
いかだば
大分/日田市
(川下)
<筑後街道>/内河野川
石アーチ橋
長9.0m,S7.8m(A)
文化3(1806)
県有形
市教委/WEB(石橋)
平成24豪雨で大破→迫石だけが残る→壊れたかったのは、施工がよほど丁寧で迫石相互が密着していたため
施主: 高瀬筋の庄屋達、石工: 日田郡竹田村の久治・五郎吉、/県下で現存最古の石アーチ橋/延400人の人手と石材90本が使われた
3
B
虹澗橋
こうかん
大分/豊後大野市・
臼杵市
一般道/三重川
石アーチ橋
長31m,S25.2m(A)
文政7(1824)
国重文
日本百名橋p219-220
/WEB(石橋)
/市教委
大型車を通すため取り付け部を1mほど嵩上げして水平に→端部では高欄上にC壁
臼杵へ年貢米を運搬する際の最大の難所だった柳井瀬に、3人の豪商(三重・市場の油屋富治と後藤喜十郎、臼杵城下の茶屋・甲斐源助)が藩の許しを得て自費で架けたもの→私財投入で身代が傾いた/石工棟梁:臼杵の大野織平、支保工:大工・磯五郎/虹型の美しいアーチ橋
2
A
草深野石橋
くさぶかの
大分/豊後大野市
(草深野)一般道
石アーチ橋
(合掌式)
長10.4m,S2.85m(A)
江戸期?
WEB(石橋)
アクセス困難
合掌式の本格的な道路橋は非常に稀/合掌部の石材の加工が日田市の川原隧道や熊本県の幸野溝(旧貫)と比べきれい過ぎるので近代の可能性もあるが、側壁の石組は江戸期の可能性を排除できないので一応リストに入れた
2
A
潮観
橋
しおみ
大分/豊後高田市
(香々地)<別宮八幡社・参道>/八幡川
石アーチ橋
長10.7m,S5.8m(A)
安政5(1858)
県有形
WEB(石橋)
八幡川改修の際、現地保存を可能にするため橋基部を石積補強
川を挟んで両側に石灯籠が建ち、全体に虹型をしたきれいな橋/高欄は簡素、壁石も乱積
2
A
霊仙寺の無明橋
れんせん、むみょう
大分/豊後高田市
中山仙境(岩の痩せ尾根)
石アーチ橋
(合掌式)
長3.0m(A),幅44㎝
江戸期?
WEB(石橋)
保存状態良好
直線状の2つの石梁が中央で合掌しアーチを構成する構造/大分県に2橋、熊本県に1橋存在する近世(?)の合掌式アーチ(杵築市と熊本県人吉市)と同一構造だが、両端も岩壁に圧着されているだけのように見え、断崖絶壁状ということもあり、最も安定感に欠けるイメージが強い/江戸期かどうかは全く不明
1
B
オダニの車橋
大分/由布市
人道/大分川・支川
石アーチ橋
長12.6m,S5.9m(A)
嘉永元(1848)
県重文
WEB(石橋)
保存状態良好
庄屋・三重野善司が地区の上納米を府内藩に運ぶため架設/高欄の石は、路面から突出させた梁の上に据え付けられ、橋面を広くする工夫がされている/壁石は切り込みはぎ
1
B
豊岡眼鏡橋
とよおか
熊本/熊本市(北区)
一般道/滑川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長12.8m,S11.2m(A),幅4.3m
享和2(1802)
市有形
WEB(石橋)
上部C化/高欄改修
石工:理左衛門(理平の弟子)/太柄(だぼ)を用いて迫石を固定するタイプ/理左衛門の作品としては最古/理左衛門が次に造った門前川橋と2橋だけが、このタイプで現存・現役
3
A
天神橋
てんじん
熊本/阿蘇市
一般道/平保木川
石アーチ橋
(阿蘇溶岩)
長11.5m,S6.1m
(A)
弘化4(1847)
市有形
市教委/WEB
鉄骨補強、排水管設置(側方景観が部分的に喪失)
石工・宇助(嘉八の長男、三男が橋本勘五郎)/この橋に使われている石は、滝室坂に露出している阿蘇溶岩/橋名は、文化財指定時に、隣にあった天神社に由来
2
B
無量寺橋
(寺橋めがね橋)
むりょうじ
熊本/天草市
無量寺参道(一般道)
/久玉川
石アーチ橋
(花崗岩)
長8.15m(A),幅2.85m
享保元(1716)→明治26 修復
WEB(石橋)
路面舗装
欠円アーチ/石の親柱を擬宝珠風に加工(無量寺の格式が高かったため)、束柱も装飾的
2
B
岩本橋
いわもと
熊本/荒尾市
人道<三池往還→県道>
/関川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長32.7m,S12.6m(2A),幅3.4m
文久3(1863)頃
県重文
市教委
河道変更で橋の機能を喪失(京都の岡田橋と同じ)⇒保存方法としては、景観の伝承につながらず、あまり良くない
石工:不明(橋本勘五郎説は、恐らく間違い)/建造年について、これまで明治4、明治10などの説があったが、近年熊本大学による史料調査で、近世に遡ることが確認された/橋の北のたもとには、肥後と筑後の国境を警備する岩本番所があった
2
A
薩摩渡
さつま
熊本/宇城市
人道<薩摩街道>/浜戸川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長16.1m,S9.6m(A),幅3.4m
文政12(1829)
市重文
WEB(石橋)/現地解説板
路面の舗装以外は保存状態良好
石工:嘉八(橋本勘五郎の父)?/種山組の中核となった4兄弟の父・嘉八の数少ない作品の1つ/弓型
2
B
三由橋
みつよせ
熊本/宇城市
一般道/小熊野川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長20.95m,S12.7m(A),幅3.0m
文政13(1830)
市重文
WEB(石橋)
上部C化/高欄改修
石工:岩永三五郎/雄亀滝橋と並ぶ、三五郎の初期の作品/アーチ底面:大胆な粗い石組み/弓型
3
B
山崎橋
やまさき
熊本/宇城市
人道/小熊野川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長23.0m,S14.0m(A),幅3.6m
天保2(1831)→慶応2(1866)高欄
市重文
WEB(石橋)
路面の舗装以外は保存状態良好
石工:種山組/弓型
2
B
安見下鶴橋
やすみしもづる
熊本/宇城市
人道/浜戸川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長22.7m,S19.0m(A),幅3.7m
嘉永元(1848)
市重文
WEB(石橋)
路面の舗装以外は保存状態良好
石工:祐助/虹形の美しい橋
1
B
船場橋
せんば
熊本/宇土市
人道/船場川
石アーチ橋
(馬門石・安山岩)
長13.7m,S約10m(A),幅4.1m
慶応年間(1865~68)
市史跡
市教委
保存状態良好/歴史的景観を保持
石工:嘉八(橋本勘五郎の父)/船場橋、雁木群、井戸、エノキの巨木が一体となって、歴史的空間を醸し出している/朱色の馬門石と、灰白色の安山岩の組み合わせが、他にはない景観を創出
1
A
迫間橋
はざま
熊本/菊池市
一般道/迫間川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長36.6m,S20.8m(A),幅3.7m
文政12(1829)
市教委
/WEB(石橋)
保存状態良好
石工:伊助(施工例が少ないため、本人が設計したかどうかに疑問符)/径間20mと大型アーチの割に扁平、かつ、橋の上面とアーチとの間が薄い独特な型式(三五郎一族とは別)
1
B
立門橋
たてかど
熊本/菊池市
一般道/柏川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長75m,S21.7m(A),
幅3.6m
万延元(1860)
県重文
WEB(石橋)
保存状態良好
石工:宇一(嘉八の二男、三男は橋本勘五郎)/橋長75m、径間22mの大型アーチ/下流側の両岸を石垣積みで補強/橋に「立門」と刻まれ、漆喰が塗られている
1
B
高瀬目鑑橋
たかせ
熊本/玉名市
人道/高瀬裏川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長19.0m,S6.7m(2A),幅4.1m
嘉永元(1848)
県重文
WEB(石橋)
裏川の歴史的環境整備の一環で修景
石工:丈八(後の橋本勘五郎)?/上流側の橋脚に大きな水切りが付いているのが特徴
1
B
石水寺の目鑑橋
せきすいじ
熊本/人吉市
人道/馬氷川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長19.5m,S12.0m(A),幅2.7m
嘉永7(1854)
市有形
WEB(石橋)
路面の舗装以外は保存状態良好
石工:太次郎/太鼓型の石アーチ/中央部が迫石だけで壁石がなく跳躍感がある/キースト-ンがアーチ環の下に突き出ている
2
B
井口八幡宮の石橋
いのくち
熊本/人吉市
人道/庭園の池
石アーチ橋
(合掌式)
(凝灰岩)
長3.2m,幅40㎝(A)
江戸期?
WEB(石橋)
保存状態良好
(このサイトでは原則として庭園橋は除外するが、特殊な構造のためリストに含めている)
長2.0mと1.2mの弓型の石梁が中央からずれた位置で、合掌しアーチを構成する構造/熊本県に1橋と大分県に2橋存在する近世(?)の合掌式アーチ(杵築市、豊後高田市)と同一構造だが、左右非対称なためアーチのバランスには高度の判断を要したものと推察される→3橋の中で、形態的は最もアンバランス感が強い
1
B
鹿路橋
ろくろ
熊本/八代市
廃道/河俣川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長20.3,S13.6m(A),
幅2.7m
嘉永元(1848)
市有形
WEB(石橋)
/WEB
保存状態ほぼ良好
石工:嘉八(橋本勘五郎の父)
2
B
赤松橋
あかまつ
熊本/八代市
一般道/二見川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長12.3m(A),幅3.8m
嘉永5(1852)頃
市有形
WEB(石橋)
/WEB
保存状態良好
二見川の石アーチ(6橋)中最も装飾的=高欄に扇面や瓢箪等の彫刻
1
B
洞口橋
(日渡洞口橋)
とうぐう(ひわたし)
熊本/山鹿市
<人道/前川>
石アーチ橋
(凝灰岩)
長6.0m,S5.2m(A),
幅0.58m
安永3(1774)
市有形
WEB(肥後石工)
/前川清一
平成5の洪水で流出→平成6復元・展示
石工:仁平(ただし、「仁平=仁平組の元祖」という通説は間違い)/太柄(だぼ)を用いて迫石を固定するタイプで最古の橋=仁平が細川藩より阿蘇黒川に眼鏡橋架橋を命ぜられ、築造上最も重要なアーチ部分を試作したもの/長さ約85㎝の石材を7本継いだリブアーチ
3
A
湯町橋
ゆまち
熊本/山鹿市
日輪寺<豊前街道
/吉田川>
石アーチ橋
(凝灰岩)
長17.7m,S7.0m(2A),幅4.8m
文化11(1814)
県重文
WEB(石橋)
/市教委
昭和50 移築/水のない所に移設
石工:吉兵衛ら/楔石の1つに年代が刻まれている/2径間だが小規模
3
B
重盤岩眼鏡橋
ちょうはんがん
熊本/(葦北)津奈木町
人道<薩摩街道>
/津奈木川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長18m,S17m(A),
幅4.5m
嘉永2(1849)
県重文
保存状態良好
石工:三平(岩永三五郎の弟)/この地方では最大級の石アーチ,太鼓形が優美,高欄も簡潔
1
B
門前川目鑑橋
もんぜんがわ
熊本/(上益城)御船町
人道(日向往還)/門前川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長7m,S6.4m(A),
幅2.6m
文化5(1808)
町有形
現地解説板/WEB(肥後石工)/WEB
路面舗装以外、保存状態良好
石工:理左衛門(理平の弟子)/太柄(だぼ)を用いて迫石を固定するタイプ/理左衛門の作品としては豊岡橋に次いで古い/アーチの両側部が二重アーチになっている/迫石に番号が刻んである
2
A
八勢眼鏡橋
やせ
熊本/(上益城)御船町
<日向往還>
/八勢川・東上野用水
石アーチ橋
(凝灰岩)
長62.0m,S18.2m(2A),幅4.06m
安政2(1855)
県重文
WEB(石橋)
保存状態良好/石畳と一体化した歴史的空間
石工:宇助、甚平(嘉八の長男と四男、三男は橋本勘五郎)/御船の材木商・林田能寛が私財を投じ架橋/上下流側に立派な鞘石垣/アーチ開口部の割りにアクセス部分が長い=左岸ぎりぎりに用水路用の開口部(S1.4m)/延長線上に石畳
1
A
聖橋
ひじり
熊本/(上益城)山都町
廃道/笹原川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長35m,S19.9m(A),
幅5.0m
天保3(1832)
町有形
緑川流域の石橋群魅力再構築事業調査報告書(以後『緑川』と略記)
平成11修復/国道218号にぴったり接合するよう保存、上流面が見えない
石工:岩永三五郎
3
B
金内橋
かねうち
熊本/(上益城)山都町
一般道
/御船川、中嶋新井手
石アーチ橋
(凝灰岩)
長31.0m,S16.4m・5.0m
(2A),幅5.5m
嘉永3(1850)
町有形
矢部町史/WEB(肥後石工)
/WEB(石橋)
道路拡幅のため、上部C化→主アーチはリブ補強
石工:宇一(嘉八の二男)、丈八(同・三男、後の橋本勘五郎)/小さい方のアーチは灌漑用水路を跨ぐため
4
B
上津久礼眼鏡橋
かみつくれ
熊本/(菊池)菊陽町
人道/公園内の池<井手>
石アーチ橋
(凝灰岩)
長16.20m,S7.00,5.65m(2A),幅2.80m
天保9(1838)
町有形
町教委
/WEB(石橋)
明治元 小規模修復→平成元 公園化/高欄改修
石工:治助/2径間アーチ
2
B
井口眼鏡橋
いぐち
熊本/(菊池)菊陽町
人道/馬場楠井手
石アーチ橋
(凝灰岩)
長10.75m,S5.35m(A),
幅3.00m
18世紀末~19世紀初頭
町有形
町教委
/WEB(石橋)
上流側を1m拡幅(石アーチ)
太柄(だぼ)を用いて迫石を固定するタイプ
3
B
小筵橋
こむしろ
熊本/(下益城)美里町
一般道/小筵川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長47.00m,S11.0m(A),
幅2.0m
文化5(1808)頃
WEB(石橋)
保存状態良好
石工:嘉八(橋本勘五郎の父)
1
B
馬門橋
まかど
熊本/(下益城)美里町
人道/津留川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長27.0m,S11.9m(A),幅3.0m
文政10(1827)
町有形
WEB
保存状態良好
石工:備前の勘五郎(棟梁)・茂吉/石工名を刻んだ石柱が立つ
1
B
二俣渡
(二俣第一橋)
ふたまた
熊本/(下益城)美里町
人道/釈迦院川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長28.0m(A),幅3.3m
文政12(1829)
町有形
WEB
保存状態良好
石工:嘉八(橋本勘五郎の父)/写真・右側の橋
1
B
二俣福良渡
(二俣第二橋)
ふたまた・ふくら
熊本/(下益城)美里町
人道/津留川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長27.0m(A),幅2.5m
文政13(1830)
町有形
WEB
保存状態良好
石工:嘉八(橋本勘五郎の父)/写真・左側の橋
1
B
霊台橋
れいたい
熊本/(下益城)美里町
人道/緑川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長89.9m,S28.4m(A),幅5.4m,高16.0m
弘化4(1847)
→明治33嵩上・水平化
→昭和55原形復帰
国重文
重要文化財霊台橋保存修理工事報告書
復元的修復/上流南側の鞘石垣は、昭和41の新霊台橋の架設の際に撤去
施主:惣庄屋・三隅丈八、石工:宇助、宇一、丈八(嘉八の長男~三男、丈八は後の橋本勘五郎)ら/近世最大径間の道路用石アーチ橋(現存する国内石アーチの径間長では3位だが、残る2橋は大正と昭和の築造で、比較することすらナンセンス)/美しい曲面で構成された2段の鞘石垣が特徴=下流北側の鞘石垣は、アーチ部分を巻き込んで積まれており、水勢からアーチの基礎部分を保護し崩壊を防ぐ「水制」の役割を担っていた/近代に入り交通のため一旦水平化したものを、再度原形に戻した珍しい例
1
大窪橋
おおくぼ
熊本/(下益城)美里町
人道/津留川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長19.3m,S12.0m(A),幅2.7m
嘉永2(1849)
町有形
WEB
保存状態良好
石工:丈八(後の橋本勘五郎)・新八
1
B
麻扱場橋
おこんば
熊本/(玉名)南関町
大津山公園/<内田川>
石アーチ橋
(凝灰岩)
長11.9m,S8.9m
(A),幅2.8m
江戸末期?
町有形
町教委
移設/保存状態良好
種山石工の流れを組む地元の作/中央部が迫石だけの、太鼓型のアーチ
3
B
久兵衛橋
(関橋)
きゅうべえ
宮崎/
(西臼杵)高千穂町
一般道/上野川
石アーチ橋
長20.0m,S10.9m(A)
文久3(1863)
WEB(石橋)
高欄ガードレール化
アーチの上幅より基礎が2.6m広い+見せかけの二重拱環→肥後の石工の技?
2
B
西田橋
にしだ
鹿児島/鹿児島市
石橋記念公園
<県道・鹿児島~東市来線/甲突川>
石アーチ橋
(凝灰岩)
長49.50m,S11.70m
(4A)
弘化3(1846)
県有形
西田橋移設復元工事報告書
建設当初の姿(やや弧状に修正)に復元(平成11移設復元)/御門は想像再現
石工:岩永三五郎/壁石:扇形の布積/甲突五石橋の1つ/鹿児島城下の玄関口として藩の威光を誇示した橋(五石橋の中で、唯一擬宝珠高欄を持つ)=他の4橋の約3倍の費用をかけた/岩永三五郎の代表作
2
高麗橋
こうらい
鹿児島/鹿児島市
石橋記念公園
<一般道/甲突川>
石アーチ橋
(凝灰岩)
長54.95m,S12.45m
(4A)
弘化4(1847)
WEB/石橋は生きている
洪水被害を受け、かなり大胆に復元(平成11移設復元)
石工:岩永三五郎/壁石:扇形の布積/甲突五石橋の1つ/上流側の水切りが垂直に近い勾配で立ち上がる
3
A
玉江橋
たまえ
鹿児島/鹿児島市
石橋記念公園
<一般道/甲突川>
石アーチ橋
(凝灰岩)
長50.74m,S11.55m
(4A)
嘉永2(1849)
WEB/石橋は生きている
洪水被害を受け、かなり大胆に復元(平成11移設復元)
石工:岩永三五郎/壁石:扇形の布積/甲突五石橋の1つ
3
A
黒島神社の石橋
くろしま
鹿児島/姶良市
黒島神社/山田川支流
石アーチ橋
(凝灰岩)
長6.1m,S2.38m(A)
天明4(1784)
市有形
姶良町教委
/WEB(石橋)
保存状態良好
石工:平山得右衛門/三角アーチに近い特異な構造(頂部に大きな要石)/壁石は布積崩し(石組が見事)/橋の袂に記念碑(下記参照)が建つ
1
B
江之口橋
えのくち
鹿児島/薩摩川内市
一般道/八間川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長17.3m,S7.6m(2A)
嘉永2(1849)
市有形
WEB
両岸の石垣も含め一体として良好に保存
石工:岩永三五郎/壁石は布積崩し
1
B
矢櫃橋
やびつ
鹿児島/南九州市
人道/麓川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長14.3m,S5.15m(2A)
嘉永5(1852)頃
市建造物
WEB
保存状態良好/公園化/高欄なし
石工:瀬戸口某/壁石:布積崩し/大アーチの端部のリブの上に、側径間の小アーチが載る特異な構造
1
B
末吉宮磴道橋
すえよしぐう・
とうどう
沖縄/那覇市
末吉宮
石アーチ橋
(石灰岩)
S1.8m(A)
1456年
県有形
WEB
原形保存
わが国で現存最古の石アーチ橋末吉宮に上がるための階段状の参道橋/アーチ部は、2枚の湾曲した石板から構成されている/壁石は乱積
1
A
世
持橋
(旧・慈恩寺橋)
よもち
沖縄/那覇市
県道/龍潭(池)→排水路
石アーチ橋
(石灰岩)
1456年→1661年移設
市教委/WEB
移築・一部保存改修度大/龍潭側は池で接近できず、さらに鉄柵もある(橋が残るのは龍潭側のみ)
橋にあった微粒砂岩製の「世持橋勾欄羽目」は、沖縄の石材彫刻中最も優れたものの1つ(県指定、沖縄県立博物館蔵)
3
B
天
女橋
てんにょ
沖縄/那覇市
弁財天堂への参道/ 円鑑池
石アーチ橋
(石灰岩)
長9.75m,S3.3m(A)
1502年→1621年改修→1744年改修→沖縄戦で崩壊→1969年解体修理
国重文
市教委/現地解説板/WEB
沖縄戦で崩壊したものを復元(微粒砂岩製の高欄は新設)
当初名称:観蓮橋/アーチ部は、4枚の湾曲した石板から構成されている/壁石は布積、橋面石は繊細な組み合わせ/欄干は戦前にすでになくなっていた
2
龍
淵橋
りゅうえん
沖縄/那覇市
人道/ 円鑑池~龍潭への注ぎ口
石アーチ橋
(石灰岩)
S1.75m(A)
1502年頃
県有形
WEB
沖縄戦で崩壊したものを復元
アーチ部は、3枚の湾曲した石板から構成されている(橋としては珍しい3心円アーチ)/壁石は乱積
1
B
ヒジ川橋
ヒジガー
沖縄/那覇市
ヒジ川橋取り付け道路(人道)/安里川<金城川>
石アーチ橋
(石灰岩)
長13.18m,S3.5m(A)
1733年頃
県有形
市教委/WEB
金城ダムの築造にあたり、周辺整備
アーチ部は、4枚?の湾曲した石板から構成されている/壁石は乱積橋面は2段の太鼓型
1
B
識名園石橋
(北)
しきなえん
沖縄/那覇市
識名園
石アーチ橋
(石灰岩)
1799年
世界遺産、国特別名勝
市教委/WEB
保存状態は完璧
未加工の自然岩と一体化した特異な橋/アーチ部裏面のみは整形加工/橋面は3段の太鼓型
1
A
識名園石橋
(南)
しきなえん
沖縄/那覇市
識名園
石アーチ橋
(石灰岩)
1799年
世界遺産、国特別名勝
市教委/WEB
保存状態は完璧
橋面は7段の中国風の太鼓型/それに合わせて、高欄も弓なりになった面白いデザイン
1
A
報得橋
むくえ
沖縄/糸満市
<県道・奥武山~米須線/報得川>
石アーチ橋
(石灰岩)
S3.1m(A)
1732年→沖縄戦で崩壊→1993年発掘・移築
市有形
市教委/WEB
沖縄戦で崩壊したものを移設・復元/幹線道路脇に野越されているが駐車スペースもない
アーチ部は、3枚の湾曲した石板から構成されている/石工4687名と人夫11668名を動員/壁石は乱積片側のみ、建造当初の石組が残る
3
B
安波茶橋
あはちゃ
沖縄/浦添市
<中頭方西海道>/小湾川・アブチ川
石アーチ橋
(石灰岩)
長3.4m(A)
1597年頃
市史跡
WEB
復元と修景の合体(北橋の復元は平成10)=大規模な公園化
首里城と浦添・中頭・国頭方面を結ぶ宿道の一部/アーチ部は、3枚の湾曲した石板から構成されている/壁石は布積の変形
2
B
真玉橋遺構
マダン
沖縄/豊見城市
<真珠道/国場川>
石アーチ橋
(石灰岩)
長約38m(5A)→(A+A)
1708年→1837年大改修→沖縄戦で崩壊→
2002年旧橋の遺構が発見・2基分が部分保存
市建造物
市教委/WEB
2ヶ所に分けて移設・保存オリジナルの石材が残るのは一方のみ/修景+大きな解説板
首里城と那覇港を防御する目的で、尚真王によって架けられた橋/古い迫石が残っている方のアーチ部は、5枚の湾曲した石板から構成されている/壁石は乱積
2
A
池田矼
いけだ・はし
沖縄/宮古島市
(宮古島)
<下地矼道/崎田川>
石アーチ橋
(石灰岩)
長36m→約10m,S2.5m
(A)
1727年以前→1817年修築
県有形
現地解説板/WEB
アクセス路の石垣の大半が喪失/対岸が製糖工場で遮断/コンクリート製の低い高欄
アーチ部は、3枚の湾曲した石板から構成されている/壁石は布積の変形
3
B
山田谷川の石矼
やまださく・いしばし
沖縄/(国頭) 恩納村
<国頭方西海道>
石アーチ橋
(合掌式)(石灰岩)
(A)
琉球王国時代
国史跡
WEB
修復復元
合掌状の2枚板アーチ/史跡・国頭方西海道の一環/国頭方西海道の国指定化に合わせて修復(橋、街道の階段と石畳、橋下の石擁壁が一連で残る)
2
B